【ベータは月ごとに一定と仮定する】
「Kalman Filter Information Sets and Integrated EM-Based Dynamic Beta Estimation」という論文を読む機会がありました。
カルマンフィルタ、状態空間モデル、EMアルゴリズムなどの専門用語が並ぶ研究ですが、ポートフォリオ最適化に関わる立場から読むと、とても興味深いテーマを扱っています。
私なりに一言で表現すると、
「株式のベータは月ごとに一定と仮定し、その変化をカルマンフィルタによって推定する」
研究です。
論文では、トヨタ自動車を対象として、TOPIXと日経225を市場指数の候補とし、2021年9月から2025年9月までの48か月の月次リターンを使って検証しています。
読み進めるうちに、私が特に興味を持ったのは、過去のベータを精密に測ることそのものではありませんでした。
この考え方を「来月のリスクを予測すること」に発展させられないだろうか。
この記事では、そんな観点からこの研究について考えてみます。
【通常のベータは今日まで一定】
最初に疑問に思ったのは、
「ベータが時間によって変わるというのは、すでに普通のことではないのか」
ということでした。
一般的なベータは、例えば、
株式リターン = α + β × 市場リターン + 誤差
という回帰分析によって求めます。
この計算には一般にOLS(Ordinary Least Squares、最小二乗法)が使われます。
例えば、ある期間のデータから、
β = 1.2
と推定したとします。
翌月になって計算対象期間をずらして再計算すれば、
1.20 → 1.23 → 1.19
というように、計算されるベータは変化します。
したがって、「ベータが動く」こと自体が、この研究の過程と同じです。
【動的ベータは月ごとに一定】
ここが重要な違いです。
通常のOLSでは、計算に使用した期間について、ベータは1つであると仮定します。
例えば直近12か月を使うのであれば、その12か月全体を代表する1つのベータを計算します。
そして翌月になれば期間を1か月ずらし、また1つのベータを計算します。
これがローリングOLSです。
一方、この論文では、
β1, β2, β3, …, βT
というように、各時点にそれぞれ異なるベータが存在すると考えます。
そして、
βt = βt-1 + με + εt
という状態方程式によって、前の時点のベータから次のベータが変化していくとモデル化します。
つまり、
ローリングOLS:一定期間を代表するベータを毎月計算し直す
のに対して、
動的ベータ:ベータそのものを時間とともに変化する潜在変数として推定する
という違いがあります。
【データは少ないほど不安定】
ここで自然に浮かぶのが、
「最近のベータを知りたいのであれば、OLSの計算期間を短くすればよいのではないか」
という疑問です。
しかし、月次リターンの場合、1か月から得られるのは「市場が何%動いたか」と「その株式が何%動いたか」という1組の観測値だけです。
1組の観測値だけではベータを推定できないため、12か月、24か月、60か月など、ある程度の期間が必要になります。
すると、期間の長さについてトレードオフが生じます。
短くすれば新しいが不安定。
長くすれば安定するが古い。
カルマンフィルタは、この問題に別の方法で取り組みます。
「ベータは毎期変化する。しかし、前月とまったく無関係な値に突然飛ぶわけではない」
と考え、過去の推定値と新しい観測値を組み合わせながら、ベータを逐次更新していきます。
さらにこの論文では、観測誤差の分散とベータ自身の変動を表す状態誤差の分散を、EMアルゴリズムによって一体的に推定しています。
【なぜ月次?】
この論文では、トヨタ、TOPIX、日経225について、48か月の月次対数リターンを使用しています。
ここでも疑問が浮かびます。
「データ数が必要なら、月次ではなく日次株価を使えばよいのではないか」
という疑問です。
4年間なら月次では48観測ですが、日次なら約1,000営業日分の観測を得られます。
一見すると日次の方が有利です。
一方、日次リターンには企業固有のニュース、短期的な需給、取引タイミングの違いなど、短期的な要因も強く現れます。
今回知りたいのが日々の細かな値動きではなく、企業の市場に対するリスク特性が中期的にどう変化しているかであれば、月次に集約して考えることには合理性があります。
ただし、これはこの論文が「月次を採用した理由」として明示的に論証しているものではありません。
また、月次には観測数が少なくなるという反対側の問題があります。今回も48観測であり、論文自身がサンプルサイズの限定を今後の課題として挙げています。
日次と月次のどちらが絶対的に正しいという話ではありません。
むしろ実務への応用では、日次・週次・月次のどの頻度で推定することが将来リスクの予測に適しているのかも興味深い検証テーマだと思います。
【投資で欲しいのは「来月」のベータ】
ここまで考えると、さらに重要な疑問が出てきます。
投資家にとって、
「2024年6月のベータはいくつだったのか」
を精密に知ること自体が目的ではありません。
例えば9月末にポートフォリオを組み替えるのであれば、本当に欲しいのは、
10月のリスクを考えるためのベータ
です。
この点で、カルマンフィルタの考え方は興味深いものがあります。
この論文では、現在の観測まで使って現在の状態を推定する「Filtering」と、現在までの情報から状態を予測する「Predicting」を明確に区別しています。
論文のモデルでは概念的に、
β̂t+1|t = β̂t|t + μ̂ε
として、現在までの情報を使って次期のベータを予測できます。
ポートフォリオ運用への応用という観点では、私はこの「次期ベータ」こそ重要なのではないかと感じました。
【最適化にはベータではなく共分散行列】
ここからは、この論文を読んで私自身が考えた発展的な話です。
リスクを基準としたポートフォリオ最適化で直接使うのは、通常、ベータではありません。
重要なのは、各資産がどの程度変動し、資産同士がどの程度一緒に動くかを表す共分散行列 Σです。
ポートフォリオの分散は、
σP² = wT Σ w
で表されます。
つまり、9月末にポートフォリオを最適化するなら、本当に欲しいのは、
「10月に、それぞれの資産がどれくらい変動し、資産同士がどの程度一緒に動くのか」
という予測です。
ここで動的ベータとポートフォリオ最適化がつながってきます。
【動的ベータで来月の共分散行列を予測】
市場モデルでは、個別株のリターンを、
ri = βi rM + εi
と考えることができます。
つまり株式の値動きを、
市場全体によって動く部分
と、
その企業固有の部分
に分けます。
この場合、銘柄 i と銘柄 j の共分散は、概念的には、
Cov(ri, rj) = βi βj σM² + Cov(εi, εj)
と表現できます。
もし各銘柄について次期のベータをカルマンフィルタで予測できれば、それを材料として次の運用期間の共分散行列を予測できる可能性があります。
イメージとしては、
過去のリターン
→ 動的ベータを推定
→ 次期ベータを予測
→ 次期の市場リスク・個別リスクを予測
→ 次期の共分散行列を作る
→ ポートフォリオを最適化する
という流れです。
私は、この方向にこの研究のとても興味深い発展可能性があるように感じました。
【最適化ロジックではなく入力を変える】
ここは重要です。
すでに過去のリターンからσと相関を計算し、Historicalな共分散行列を作っている場合、その中には市場全体による値動きも含まれています。
したがって、そこへ動的ベータによる市場リスクを単純に足してしまうと、同じリスクを二重に数える可能性があります。
動的ベータを利用するなら、
Historical共分散行列 + 動的ベータ
ではなく、
Historical共分散行列 → Forecast共分散行列
という置き換えを考える方が自然です。
例えば単純な1ファクターモデルなら、
Σt+1|t = Bt+1|t σM,t+1|t² Bt+1|tT + Dt+1|t
という形が考えられます。
Bは各銘柄の予測ベータ、σM²は市場の予測分散、Dは各銘柄固有のリスクです。
この方法なら、ポートフォリオ最適化の計算方法そのものを大幅に変更するのではなく、最適化に入力するリスク予測を変えるという考え方になります。
【トヨタの検証では日経225よりTOPIX】
論文では、トヨタ自動車の市場指数としてTOPIXと日経225を比較しています。
事前分析でも、トヨタとの相関はTOPIXが0.671、日経225が0.591でした。
さらにカルマンフィルタによる分析では、TOPIXの場合、異なる誤差定義による対数尤度が約116.33と116.34でほぼ一致しました。
一方、日経225では約109.87と116.85と差が生じています。
動的ベータの軌跡についても、TOPIXでは比較的滑らかな動きを示したのに対し、日経225では不規則な動きが見られました。
こうした結果から、この論文では今回のトヨタの分析にTOPIXを採用しています。
これは、「どの市場指数をベンチマークにするか」も動的ベータ推定にとって重要であることを示している点で、実務的にも興味深い結果です。
【次の実験:クラウドオズと競わせる】
この論文を読んで、私自身がぜひ試してみたいと思ったことがあります。
毎月末に、
① 過去のリターンから作ったHistorical共分散行列
と、
② 動的ベータなどを利用して作った翌月の予測共分散行列
を用意します。
そして翌月が終了したら、
「どちらが実際に発生した翌月のポートフォリオリスクをより正確に予測していたか」
を比較します。
さらに、動的ベータについても、
日次、週次、月次、ローリングOLS
など複数の方法を同じ条件で比較できます。
これを多数の銘柄、多数の期間について繰り返せば、どの方法が将来のポートフォリオリスクをより適切に予測するのかを実証的に検証できます。
動的ベータがそこで有効性を示せば、統計的なベータ推定の研究から、実際のポートフォリオ構築へと応用範囲が広がります。
【そして予測ポートフォリオ最適化へ】
今回この論文を読んで特に興味深かったのは、単に「カルマンフィルタでベータを計算する」ということではありません。
その背景には、
市場や企業のリスク構造は、時間とともに変化する
という考え方があります。
従来のリスク計算では、過去の一定期間のデータからリスクを計算し、その値を将来にも適用することが一般的です。
しかし、本当に知りたいのは過去のリスクではありません。
次の運用期間に、どのようなリスクが発生しそうなのか。
そこまで予測できれば、ポートフォリオ最適化の考え方も一段先に進められる可能性があります。
私は、この研究の先に、
動的ベータ
→ 動的共分散
→ 予測ポートフォリオ最適化
という発展があるのではないかと期待しています。
論文で構築された理論的な枠組みが、今後さらに多くの銘柄、異なるデータ頻度、さまざまな市場環境で検証され、将来のポートフォリオリスク予測へと発展していくことを期待しています。
そして実務の側からも、
【目指すのは「昨日のリスク測定」から「明日のリスク予測」へ】
その可能性を考えるうえで、大変興味深い研究だと感じました。
論文を提供していただいたラディウス社中島氏に感謝いたします。
Kalman Filter Information Sets and Integrated EM-Based Dynamic Beta Estimation
Yukio Nakashima
Radius, Inc.
Working Paper
15 May 2026
Corresponding author: y.nakashima@radiu.jp
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